酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


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何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


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7105 第十九代・島津光久墓(鹿児島県鹿児島市池之上町48・福昌寺)

島津 光久 ( しまづ みつひさ ) は、江戸時代前期の外様大名、薩摩藩第 2代藩主。


初代藩主・島津忠恒 ( 家久 ) の子、島津義久の玄孫にあたる。


生涯
寛永元年 ( 1624年 ) に江戸幕府の命により人質となり江戸に移住したが、これは大名の妻子を江戸に定住させる政策 ( 参勤交代の一環 ) の先駆けとなったと言われている。


寛永 8年 ( 1631年 ) 4月 1日、将軍徳川家光から、松平の名字と、偏諱 (「光」の一字 ) を与えられ、初名の忠元 ( ただもと ) から光久 (「松平薩摩守光久」) に改名[1]。


寛永 14年 ( 1637年 )、島原の乱が勃発した際、父・家久が病気になったために代わりに参陣するよう命じられ、初めて帰国の許可が下りる。この直後に家久が死んだために実際には島原の乱に参加することはなかった。


内政では財政の立て直しのために家老の島津久通に命じて寛永 17年 ( 1640年 ) に長野 ( 現在の鹿児島県薩摩郡さつま町永野 ) に金山を開発する。しかし、幕府の妨害により寛永 20 ( 1643年 ) には早くも操業を停止させられるなど苦難の連続で、金山の再開発が始まるのは明暦 2年 ( 1656年 ) であった[2]。


光久の治世は、幕府の鎖国政策によりそれまで依存していた海外貿易に収入の期待ができなくなったことから、この金山開発の他、新田開発、洪水対策など、産業振興による収入源の確保が基本政策となった。


また光久の藩主就任直後は家中が安定せず、分家・新城島津家当主で妹婿の島津久章を自害に追い込んだり、父・家久お気に入りの家老であった島津久慶[注釈 1]を閑職に追放し、その死後には彼の名前を系図からも削除して記録からも抹殺しようとした事件もあった。


その後、光久の長命もあって貞享 4年 ( 1687年 ) 隠居して孫・綱貴に家督を譲るまで 50年も薩摩藩を支配。38人もの子女に恵まれた艶福家でもあるが、その母親の大半が記録には「家女房」とだけ書かれ素性不明である。これは他の当主と比べても異常で、非常に奇異とされている[4]。


鹿児島の名園・仙巌園はこの光久の命によって築かれた物である。また鹿児島県の夏の風物詩である六月灯も光久が始めた行事と言われる。練り羊羹に必要な寒天の発明にも関わったと言われる[5]。


徳川光圀が江戸に後楽園を作って大名たちを招待した際、光久も招かれて行った。光圀が後楽の意味を説明している最中、光久はいきなり裸になり池に入って泳ぎ回った後「よくできた池でござる」と挨拶した[6]。


家族
※以下の記述は主に『寛政重修諸家譜』参照


・父:島津家久
・母:薩州家・島津忠清の娘
・養母:島津義久の娘(亀寿、忠清の母・御平とは姉妹、光久の大伯母にあたる)
・正室:伊勢貞豊の娘(曹源院殿、島津家家老・伊勢貞昌の孫娘、万治元年6月11日(1658年)7月11日死去)
 ・長男:島津綱久
 ・長女:満(島津久雄正室)
・継室:公家・平松時庸の養女(陽和院殿、実は交野時貞の娘、後光明天皇掌侍、万治2年(1659年)婚姻、寛永15年2月3日(1638年3月18日) - 正徳元年8月12日(1711年9月24日)
・側室:松澤氏
 ・次女:辰[7](島津久憲室)
 ・次男:北郷久定
・側室:黒田氏
 ・三女:酉[7](島津久薫室)
・側室:救仁郷氏
 ・四男:島津久岑
・側室:津留氏
 ・六男:島津久侶
・側室:新納氏
 ・四女:虎[7](島津忠興[注釈 2]室)
 ・五女:亀[7](入来院重治室)
 ・八女:長[7](島津久文室)
・側室:玉利氏
 ・八男:島津忠智
 ・十三女:鶴千代[7](肝付兼柄室)
・側室:有馬氏
 ・九女:虎鶴[7](島津久供室)
・側室:鹽田氏
 ・十四男:桂久祐
・側室:岩山氏
 ・十女:鶴[7](継室・平松氏養女、織田信盛正室)
・側室:味方氏
 ・十六男:畠山基明
・妾(姓名不詳)[注釈 3]
 ・三男:北郷(島津)忠長
 ・五男:佐多久逵
 ・七男:鎌田正長
 ・九男:喜入久亮
 ・十男:島津久明(十男)
 ・六女:万鶴[7](北郷忠昭室)
 ・七女:千亀[7](伊勢貞顕室)
 ・十一男:島津久当
 ・十二男:某(字「外記」)
 ・十三男:島津久記
 ・十一女:千代鶴[7](桂忠昶室)
 ・十二女:千代松[7](種子島伊時室)
 ・十四女:安千代[7](潁娃久明室→離婚)
 ・十五女:袈裟千代[7](種子島伊時継室)
 ・十七男:入来院重矩
 ・十八男:島津久房(島津重年外祖父)
 ・十六女:松鶴[7](島津久輔室)
 ・十七女:亀松[7](島津忠胖室)
 ・十九男:島津久雄[注釈 2](十八男)
 ・十八女:亀千代[7](3歳で夭折)
 ・十九女:徳鶴[7](北郷久嘉室)
 ・二十男:税所久皎[注釈 4]
・養子
 ・養女(実父:島津(基多村)久茂(島津忠長の孫)、島津久雄継室)


関連項目
・市比野温泉
・新・子連れ狼


脚注
注釈
1. 初代異国方宗門方掛け家老という[3]。
2. a b 同時代の佐土原藩主島津忠興・島津久雄とは同名の別人
3. 『寛政重修諸家譜』では「某氏」、『島津氏正統系譜』では「家女房」とある。
4. 家臣高橋氏の婿養子となったが後に離婚し、母方の税所氏を継いだとされる[8]。


出典
1. 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社 ISBN 4-8231-0528-1
2. 『鹿児島県の不思議事典』新人物往来社 ISBN 4-404-02994-2
3. 『職掌起原』
4. 『藩史大事典』7巻「九州編」雄山閣 ISBN 4-639-00725-6
5. 鶴屋八幡HP
6. 海音寺潮五郎 『史談 切り捨て御免』 文春文庫 ISBN 4167135299、144-145p
7. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『島津歴代略記』 (島津顕彰会 1985年)
8. 『御家譜』
(wikiより)