酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


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7098 第二十三代・島津宗信墓(鹿児島県鹿児島市池之上町48・福昌寺)

島津 宗信 ( しまづ むねのぶ、享保 13年 6月 13日 ( 1728年 7月 19日 ) - 寛延 2年 7月 10日 ( 1749年 8月 22日 )) は、江戸時代中期の島津氏第 23代当主。薩摩藩の第 6代藩主。


略歴
正室はなし ( 婚約者に徳川宗勝の娘・房姫 )。幼名は益之助、又三郎。初名は忠顕 ( ただあき )、のちに将軍徳川吉宗より偏諱を賜い、宗信に改名。官位は従四位上、薩摩守、左近衛中将。


享保 13年 ( 1728年 ) 6月、第 5代藩主・島津継豊の長男として生まれた。母は側室於嘉久 ( 渋谷氏 )。仁徳者として知られた伊集院仁右衛門の教育を受ける。若年時より才気煥発で将来を嘱望された。元文 4年 ( 1739年 ) 12月、従四位下侍従を叙任し、薩摩守を称した。延享 3年 ( 1746年 ) 11月、父・継豊の隠居により家督を継ぎ、藩主となった。同年 12月、左近衛少将に叙任している。寛延元年 ( 1748年 ) 12月、従四位上左近衛中将に叙任した。


寛延 2年 ( 1749年 )、膝の痛みを発症し、夏季の旅は困難であるため 3月に江戸を発ったが、その途中に浮腫を発症する。5月 18日に鹿児島に着いたが、その後も症状は悪化し、父に先立って同年 7月 10日、22歳で死去した[1]。法名は慈徳院殿俊厳良英大居士。後を弟の重年が継ぐこととなった。維新後の神号は弥広慈徳彦命。


逸話
・島津家久以降の薩摩藩主は代々、東郷重尚の子孫より日置流弓術を学んだが、宗信と後代の斉彬は特に日置流弓術を重用した。宗信は参勤交代の際の行列に弓術練習用の巻藁を持たせ、宿泊中に師範の東郷実明に指導を受けて、練習を怠らなかったという。
・『島津国史』では、生母御嘉久の方が継嗣問題を心配して、側室を薦めたが、宗信は舅の徳川宗勝に義理立てしてこれを拒否したという。結果として御嘉久の方の心配が的中してしまうこととなる。


家族、血縁者
・父:島津継豊
・実母:於嘉久(渋谷貫臣の娘)
・同母兄弟:
 ・鐘(肝付兼伯の妻)
 ・鉄(島津市大夫の妻)
 ・入来院定勝



宗信を取り上げた本
・海音寺潮五郎『乱世の英雄』 - 「お大名」という編で、宗信の人を食った大胆不敵な才気煥発ぶりを紹介している。


脚注
1. 芳即正『島津重豪』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1980年)p.6


参考文献
・「島津氏正統系図」
・「島津国史」
(wikiより)