酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


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7097 島津斉彬墓(鹿児島県鹿児島市池之上町48・福昌寺)

島津 斉彬 ( しまづ なりあきら ) は、江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第 11代藩主。島津氏第 28代当主。


薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人である。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。


生涯
生い立ちとお由羅騒動
文化 6年 ( 1809年 ) 3月 14日、第 10代藩主・島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸で生まれる。母・弥姫 ( 周子 ) は「賢夫人」として知られた女性で、この時代には珍しく斉彬はじめ弥姫出生の 3人の子供は乳母をつけず、弥姫自身の手で養育された。また、青年期まで存命であった曽祖父第8代藩主・重豪の影響を受けて洋学に興味をもつ。これが周囲の目に蘭癖と映ったことが皮肉にも薩摩藩を二分する抗争の原因の一つになったとされる。


斉彬が藩主に就任となれば、重豪のように公金を湯水のごとく費やし藩財政の困窮に一層の拍車をかけかねないと特に藩上層部に心配され、斉興は斉彬が 40歳を過ぎてもまだ家督を譲らなかった。そして、家老・調所広郷 ( 笑左衛門 ) や斉興の側室・お由羅の方らは、お由羅の子で斉彬の異母弟に当たる久光の擁立を画策した。斉彬派側近は久光やお由羅を暗殺しようと計画したが、情報が事前に漏れて首謀者 13名は切腹、また連座した約 50名が遠島・謹慎に処せられた。斉彬派の 4人が必死で脱藩し、斉興の叔父にあたる筑前福岡藩主・黒田斉溥に援助を求めた。斉溥の仲介で、斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平慶永らが事態収拾に努めた。こうして嘉永 4年 ( 1851年 ) 2月に斉興が隠居し、斉彬が第 11代藩主に就任した。この一連のお家騒動はお由羅騒動(あるいは高崎崩れ)と呼ばれている。


藩主時代
藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。嘉永 4年 ( 1851年 ) 7月には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎 ( ジョン万次郎 ) を保護し藩士に造船法などを学ばせたほか、安政元年 ( 1854年 )、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。昇平丸は後に蝦夷地開拓の際に咸臨丸とともに大きく役立った。 黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。


斉彬は松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝らと藩主就任以前から交流をもっていた。斉彬は彼らとともに幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革 ( 安政の幕政改革 ) を訴えた。特に斉彬は黒船来航以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。阿部正弘の内諾を受け、薩摩藩の支配下にあった琉球王国を介して、フランスとの兵器購入・交易を画策し市来四郎を派遣したが、後の斉彬の急死で頓挫している。


安政 4年 ( 1857年 ) の阿部正弘の死後、安政 5年 ( 1858年 ) に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。第 13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかったため、宗城ほか四賢侯、斉昭らは次期将軍に斉昭の子の慶喜を推し、篤姫を近衛家の養女とした上で家定正室として嫁がせるなどしている。斉彬は公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を請願している。一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した。井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。結果、慶福が第 14代将軍・徳川家茂となり、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れた。


最期
斉彬はこれに対し、藩兵 5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかし、その年の 7月 8日、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病し、7月 16日に死去した。享年 50 ( 満 49歳没 )。死因は、当時日本で流行していたコレラという説が有力であるが、そのあまりに急な死は、嫡子がいずれも夭逝していることとも併せ、父・斉興や異母弟・久光またはその支持者の陰謀であるとの噂もあった。なお、みなもと太郎は漫画『風雲児たち』において、薩摩ではコレラの流行が既に終わっていること、症状悪化の緩やかさがコレラの症状に該当しないこと、「異常なまでの心臓の衰弱」が、赤痢・腸チフスなど、コレラ以外の病気を死因とする他の病死説にも当てはまらないことを指摘し毒殺説を暗に支持する立場をとり、当初赤痢説を支持していた海音寺潮五郎が小説『西郷隆盛』の第二版から毒殺説に転じたことも紹介している[1]。


法名:順聖院殿英徳良雄大居士。


墓所:鹿児島県鹿児島市池之上町の玉龍山福昌寺跡。鹿児島市照国町に鎮座する照国神社の祭神でもある。


斉彬の死後、その遺言により、久光の長男・忠義が後を継いだ。なお、遺言では忠義に斉彬の長女を嫁がす条件で仮養子とし、四男・哲丸を後継者に指名しており、哲丸と忠義との相続争いを未然に防止する内容になっていた。


人物・逸話
・斉彬により着手された殖産興業の一部は尚古集成館(鹿児島県鹿児島市)に展示されている。特に、ガラス製品製造のうちガラス工芸品は薩摩の紅ビードロとして珍重され、大名間の贈り物としても用いられた品。維新後その技術は断絶し、当時のものは希少な骨董として高い価値を持つ。近来になり復元・復興に成功し、薩摩切子の名で生産されている。


・最も早く写真に撮影された大名であるといわれている。また撮影技術自体にも興味をもち、城の写真を自ら撮影するなど、好奇心に富んだ人物であったといわれている。斉彬が撮影した写真は、当時の技術では上出来であったと伝えられている。


・松平慶永(福井藩主)、山内豊信(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称された。しかし、慶永は後世において「大名第一番の御方であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂、鍋島直正公なども及ばない」と語ったといわれる。


・西郷隆盛ら後の維新志士らから慕われ、西郷などは斉彬の死去を知ると号泣し、後を追って殉死しようとしたほどである。斉彬の功績は明治時代を築くことになる人材を育て上げたこともその一つといえる。


・養女・篤姫とともに静岡県富士宮市大石寺・遠信坊(日蓮正宗総本山)の檀越であったが、大石寺の教義に随順し切れたかどうかは研究の余地を残す。


・斉彬はお由羅を大変嫌っていたが、お由羅及びその一派の粛清までは考えていなかったという。異母弟・久光との仲についても嫌っていないどころかむしろ良く、家督相続後は重宝すらしていた。


・理化学に基づいた工業力こそが西洋列強の力の根源であることを見抜き、自身もアルファベットを学ぶなど高い世界認識をもっていた。


・『島津斉彬言行録』[2]には「君主は愛憎で人を判断してはならない」、「十人が十人とも好む人材は非常事態に対応できないので登用しない」など、近代的な人材登用策を示していたことが覗える記述もある。


・嘉永6年(1853年)11月に先に大石寺に帰依していた年下の大叔父で八戸藩主・南部信順の強い勧めにより、養女である篤姫とともに、現在の日蓮正宗総本山大石寺に帰依した。


・薩摩藩には天保改革の調所広郷の事業で「にせ金造り」もあり、この事業を「お金方」と言った。調所広郷は金メッキ・銀メッキの一分金・二分銀を造ったが、どれほど藩外に出たかは不明。しかし島津斉彬は幕府が寛永通宝を天保通宝に改鋳(同一貨幣で価値が25倍増加)する利益の莫大さに目をつけ、この方式で「琉球通宝」の鋳造を老中安部正弘に頼んだが話が進まず、極秘に江戸の鋳物師西村道弥を招き鋳造を推進。斉彬急逝で一度は計画が頓挫したが、後に幕府の3年間・百万両の鋳造許可(2割を幕府献納)で鋳造を開始(124文貨幣で60文が藩の純益)一日2千名が働き3年間に290万両を鋳造し(267万両がにせ天保通宝)物産購入に使うが、多くは倒幕の軍資金となった(言わば、にせ金で明治維新を推進したことになる)。


関連情報
https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/374.html
360 山内容堂墓(品川区東大井4-8)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/440.html
426 阿部正弘墓(台東区・谷中霊園)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/705.html
662 ジョン万次郎墓(豊島区東池袋4丁目・雑司が谷霊園)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/5265.html
4777 伊達宗城墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7441.html
6485 井伊直弼墓(世田谷区豪徳寺2-24-7・豪徳寺)


 島津斉彬


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