酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


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7095 竹姫墓(鹿児島県鹿児島市池之上町48・福昌寺)

( 継豊夫人 )


浄岸院 ( じょうがんいん、宝永 2年 2月 19日 ( 1705年 3月 14日 ) - 安永元年 12月 5日 ( 1772年 12月 28日 )) は、薩摩藩第 5代藩主島津継豊の継室。権大納言清閑寺熈定の娘。


江戸幕府第 5代将軍徳川綱吉及び第 8代将軍徳川吉宗の養女。名は竹姫 ( たけひめ )。なお、徳川宗直の娘で吉宗養女となり、仙台藩の伊達宗村の正室となった利根姫とは養姉妹関係にある。


経歴
父熈定の姉妹・大典侍の局 ( 寿光院 ) は 5代将軍徳川綱吉の側室であったが、子に恵まれなかったため、姪にあたる竹姫を自身の養女とすることを望んだ。ちょうど綱吉も紀州藩主徳川綱教に嫁いだ一人娘の鶴姫を宝永元年 ( 1704年 ) に亡くしたばかりということもあってか、宝永 5年 ( 1708年 ) に綱吉と大典侍の局の養女として江戸城北の丸に迎えられる。将軍の側室が養女をとるのは異例のことで、当時大きく話題になったという。


同宝永 5年 7月に会津藩主松平正容の嫡子久千代 ( 正邦 ) と婚約するも、同年 12月、久千代は早世してしまう。


さらに宝永 7年 ( 1710年 ) には有栖川宮正仁親王と婚約し、結納まで済ませるも、享保元年 ( 1716年 ) にまたしても入輿を前に親王は没してしまう。


8代将軍吉宗の代になると、既に正室を亡くしていた吉宗に継室にと望まれたというが、5代綱吉の養女である竹姫は吉宗にとって仮にも大叔母にあたるため、6代家宣の正室 ( 御台所 )・天英院熙子の反対にあい、この話は沙汰止みとなったという。天英院は竹姫と不仲だった為、吉宗の継室になる事を恐れていた可能性もある他、天英院の支援なしでの執務も吉宗にとっては難題であった。


代わりに吉宗は竹姫を自身の養女として新たな嫁ぎ先を探すものの、過去に立て続けて 2度も婚約者が没しているともなれば不吉な噂も立ち、さらに一説には竹姫と吉宗は恋愛関係にあったともいわれ、婚家探しは難航した。


享保 14年 ( 1729年 ) になってようやく薩摩藩主島津継豊との縁組がまとまった。これは島津家と天英院の実家・近衛家が深い関係にあったことから、天英院より薩摩藩老女・佐川を通じて圧力をかけられた結果まとまったと言われる[要出典]。


しかし、将軍家息女の婚家先には多くの経済的・精神的負担がかかるため、財政難の薩摩藩にとってはこの縁組みは災難以外の何物でもなかった。加えて継豊は病弱である上に、長男益之助が誕生したばかりであった。そのため薩摩藩は、竹姫との間に今後男子が生まれても世子としない等の承服不可能と思える多くの条件を出し、それらすべてを幕府が了承した[要出典]ことで、ようやく結婚に至ったという。


結婚当時は夫・継豊が四位以上に任官していなかったにもかかわらず、「夫が四位以上の将軍家出身の女性」に与えられる「御守殿」の敬称の名乗りを吉宗から許されるなど異例の厚遇を受けた。しかし、後に隠居した継豊が鹿児島に帰国したのに対し竹姫は江戸に留まり、その 10年後に継豊が鹿児島で没するまで再会することなく別居生活を送った。


嫡母として宗信の養育や義理の孫に当たる島津重豪の養育に携わり、その後の薩摩藩政にも大きな影響を及ぼしたとされる。


略歴
・宝永2年(1705年)2月19日、権大納言清閑寺熈定の娘として京で生まれる。
・宝永5年(1708年)、将軍徳川綱吉の養女となり、同年7月、会津藩主松平正容の嫡子久千代(正邦)と婚約。同年12月、久千代夭折。
・宝永7年(1710年)11月、有栖川宮正仁親王と再び婚約。
・享保元年(1716年)9月、正仁親王薨去。
・享保14年(1729年)6月、薩摩藩主島津継豊と婚約。同年入輿。
・宝暦10年(1760年)10月、継豊死去により落飾し浄岸院と称する。
・安永元年(1772年)12月5日、江戸の薩摩藩邸で死去。享年68。


法名は浄岸院信誉清仁祐光大禅定尼。墓所は鹿児島県鹿児島市の島津家墓所。


その他
・継豊との間に一女(菊姫)を儲け、後に福岡藩主黒田継高の子重政に嫁いでいる。また竹姫は継豊の嫡子宗信を自身の猶子とし、我が子同様に可愛がったという。
・浄岸院は将軍家の養女という立場を大いに利用し、島津家と徳川家の婚姻関係を深める政策を進め、薩摩藩8代藩主・宗信の正室に尾張藩主・徳川宗勝の娘・房姫と婚約させ(寛延元年、輿入れ前に房姫が死去。寛延2年には房姫の妹邦姫と宗信の婚約の話があがったが、今度は宗信が死去)、義理の孫で9代藩主・島津重豪の正室に一橋徳川家の当主・徳川宗尹の娘・保姫を迎えさせている。この婚姻により、島津家と徳川家との縁戚関係が深まっていくのである。
・浄岸院の死後、その遺言として、当時の薩摩藩主・重豪の娘茂姫と11代将軍徳川家斉(婚約当初は一橋家世子)との縁組が行われた。
・浄岸院やその他のこれらの婚姻の結果、外様であった薩摩藩の幕府に対する発言力が大いに増すこととなり、幕末に薩摩藩が台頭する大きな要因の一つになった。


登場作品
テレビドラマ
・『八代将軍吉宗』(NHK大河ドラマ、1995年、演:森口瑤子)
・『徳川風雲録 八代将軍吉宗』(テレビ東京新春ワイド時代劇、2008年、演:田中美里)
・『暴れん坊将軍IX』 (テレビ朝日)
(wikiより)