酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


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7090 第十三代・島津忠隆墓(鹿児島県鹿児島市池之上町48・福昌寺)

島津 忠隆 ( しまづ ただたか ) は、室町時代後期の薩摩国の大名。島津氏の第 13代当主。


生涯
明応 6年 ( 1497年 )、島津氏第 11代当主・島津忠昌の次男として誕生。


永正 12年 ( 1515年 )、兄で第 12代当主・島津忠治の死去により家督を継ぐ。


永正 13年 ( 1516年 )、琉球支配を企んでいた備中国蓮島の三宅国秀を討ち、島津氏の琉球における権益を守った ( ただし、この事件を島津氏が琉球貿易独占の口実の為に創作した虚偽の事件とする説もある[1] )。


兄が倒せなかった吉田位清を討って領内の平定を進めたものの、兄同様に戦乱を好まず文学に傾倒し、古今伝授を受けている。


このために島津氏内部の内乱は続いた。


永正 16年 ( 1519年 ) 4月 14日死去。享年 23歳。


墓所ははじめ鹿児島の隆盛院、後に福昌寺に改葬されている。跡を弟の島津勝久が継いだ。


脚注
1. 田中健夫「三宅国秀の琉球遠征計画をめぐって」福島金治 編『島津氏の研究』(吉川弘文館、1983年)、小山博「中世の薩琉関係について」『鳴門史学』7号(鳴門教育大学、1993年)のち、新名一仁 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻 薩摩島津氏』(戎光祥出版、2014年)所収
(wikiより)