酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


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7072 横山安武墓碑(鹿児島県鹿児島市池之上町48・福昌寺)

 この墓所については、島津家墓地の外となっております。



横山 安武 ( よこやま やすたけ、天保 14年 1月 1日 ( 1843年 1月 30日 ) - 明治 3年 7月 26日 ( 1870年 8月 22日 ))は、江戸時代末期 ( 幕末 ) から明治にかけての薩摩藩士。通称は喜三次、元四郎、正太郎[1]。


生涯
天保 14年 ( 1843年 )、薩摩藩士・森有恕の四男として誕生。弟に森有礼がいる。


儒学者の横山安容の跡を継いで藩に出仕し、後に島津久光に側近として仕える。


久光の五男悦之助 ( 島津忠欽 ) の守役となり、藩外での遊学を勧め、明治元年 ( 1868年 ) 5月より佐賀 ( 佐賀藩 ) や山口 ( 長州藩 ) に同行するが、その際に奇兵隊の一部の隊士の脱隊騒動が発生し、安武は明治 3年 ( 1870年 ) 2月に騒動を報告するため無断で鹿児島に帰国したため、久光に免職された。その後、5月に上京して田口文蔵の門人となり、陽明学を学んだ。


明治 3年 ( 1870年 ) 7月、時弊10箇条を挙げた書を集議院門扉に公示し、津軽藩邸前で屠腹して果てた。


その建言は、上に達することはなかった。


安武は、当時さかんに論じられていた征韓論に対しては「ただでさえ国内が疲弊しているときに、征韓などできるはずがない」という見解をもっており、その自決には征韓論に対する抗議の意味があった[2]。


その死は世間で話題となり、それをみた政府は島津忠義に祭祀料 100両を下賜し、西郷隆盛は明治 5年 ( 1872年 ) 8月に碑文を作って安武を弔い、墓のそばの幟に「精神、日を貫いて華夷に見われ、気節、霜を凌いで天地知る」という語を書いた[3]。


脚注
出典
1. デジタル版 日本人名大辞典+Plus
2. 拳骨(2013)p.120
3. 横山正太郎書翰 鹿児島県立図書館


参考文献
・拳骨拓史 「反日感情の相剋」『「反日思想」歴史の真実』 扶桑社〈扶桑社新書〉、2013年6月。ISBN 978-4-594-06820-2。


関連項目
・征韓論
(wikiより)


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