酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


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7065 八代・島津久豊墓(鹿児島県鹿児島市池之上町48・福昌寺)

島津 久豊 ( しまづ ひさとよ ) は、室町時代の武将、守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第 8代当主。


6代当主・島津氏久の次男で元久の弟。母は佐多忠光の娘。子に忠国、用久、季久、有久、豊久。


応永 8年 ( 1401年 ) 頃に日向の伊東氏を牽制するために伊集院久氏の後任として日向国穆佐城に派遣される。だが、伊東祐安の娘を娶って和睦しようとしたところを当主である兄・元久に反対されたことを機に不仲になった。


その後、応永 10年 ( 1403年 ) に祐安の娘との間に嫡子の忠国を儲けている。両者の対立は一時は元久が伊東氏ともども久豊を討つ話まで出たものの、最終的には応永 17年 ( 1410年 ) に上洛する元久が日向に立ち寄って久豊と会見するまで続いた[1]。


応永 18年 ( 1411年 ) 8月に兄が死去、甥の仲翁守邦は出家していたため、兄から後継者に決められていた甥の伊集院煕久が継承することになった。だが、久豊は閏10月になって鹿児島に乗り込んで元久の位牌を奪取した上で煕久を追放し 8代当主となった。


久豊の強引なやり方により国内が久豊派・伊集院氏派に分かれて争いになり、伊集院頼久 ( 久氏の子で煕久の父 ) と衝突した。久豊には穆佐城に近く元久時代に権力を振るった伊集院氏を嫌う大隅・日向の一門・家臣が、頼久には薩摩の一門・家臣及び大隅の肝付兼元が支持し、更に総州家の島津久世もが頼久を支援した。


さらに応永 19年 ( 1412年 ) には義兄である伊東祐立が離反して久豊の居城であった日向の穆佐城を奪って妹である久豊室と 2人の息子 ( 忠国・友久 ) を捕らえようとしたが、落城寸前に樺山教宗・北郷知久が久豊の妻子を救出した[1] 。


一時苦戦したが、応永 23年 ( 1416年 ) に和睦を名目に鹿児島に呼び出した久世を討ち取る。しかし、久世を騙し討ちにしたことは久豊の心にも重くのしかかり、この年に出家して存忠と称している。


翌応永 24年 ( 1417年 ) に和睦が成立。伊集院頼久とその盟友である伊作久義・勝久父子は久豊に降伏し、後継者問題に決着がついた。また、応永 25年 ( 1418年 ) には市来氏と入来院氏も久豊に従い、戦いの焦点は久豊の奥州家と島津守久 ( 久世の父 ) ・忠朝兄弟が依然として抵抗を続ける総州家との争いに絞られていく[1] 。


応永 28年 ( 1421年 ) に島津忠朝を降伏させて総州家に伝わる島津宗家の文書を接収するとともに総州家の拠点である薩摩郡を平定、また伊作氏と久豊派国人との所領争いを仲介して薩摩半島の安定化にも成功した。翌応永 29年 ( 1422年 ) に島津守久及び久林 ( 久世の嫡男 ) を肥後に追放して総州家・奥州家の両島津氏の抗争も終結させた[1] 。室町幕府は久豊の強引な家督相続に対して反対していたが、久豊が総州家を追い出し島津氏を束ねた事を認め守護職を与えた[2]。これにより、島津氏の守護領国制は完成したのである。


応永 30年 ( 1423年 )、伊東氏に報復するために日向への出兵を行い、大淀川以南を奪還して一旦は薩摩へ帰国する。だが、この年に病を発した久豊は2年後の応永 32年 ( 1425年 ) に鹿児島で病没した[1]。享年 51。


家督は嫡男の忠国が継いだ。また後に、次男の用久が薩州家、三男の季久が豊州家、四男の有久が羽州家 ( 後に大島氏 )、五男の豊久が伯州家 ( 後に義岡氏・志和地氏 ) をそれぞれ興した。


脚注
1. a b c d e 新名一仁「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0


2. 久豊が守護職を与えられた年次は不明であるが、久豊が管領畠山満家の重臣・遊佐助国(豊後守)に充てた書状の中に「去年、上様(将軍足利義持)から三ヶ国の安堵と官途を戴いた」とあるため、将軍義持ー管領満家体制が存在した時期からみて前年にあたる応永28年(1421年)もしくは翌応永29年(1422年)に限定される(「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」)。


参考文献
・都城市史編さん委員会編『都城市史 通史編 中世・近世』都城市、2005年。


・『島津歴代略記』(島津顕彰会 1985年)


・新名一仁「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0


関連項目
・伊集院頼久の乱
・慈眼寺 (鹿児島市)
・知覧城
(wikiより)