酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


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また前記事については、「リンク」より『 酔いどれJohnny『意外と身近にある歴史散歩』 』を御覧下さいませ。

7060 福昌寺跡(鹿児島県鹿児島市池之上町48・福昌寺)

福昌寺 ( ふくしょうじ ) はかつて鹿児島市に存在した曹洞宗の大寺。


薩摩藩主島津氏の菩提寺であったが明治初年[いつ?]の廃仏毀釈により破壊された。


山号は「玉竜山」であった。曹洞宗大本山總持寺の御直末である。


沿革
応永元年 ( 1394年 )、島津氏第7代当主島津元久が一族出身の僧・先に妙円寺  ( 日置市 ) を建てた石屋真梁を開山として招いて建立。


その後代々の島津氏当主の墓が建てられるようになり島津本宗家の菩提寺となる。


天文 15年 ( 1546年 ) に後奈良天皇勅願所となる。


江戸時代に書かれた『三国名勝図会』によると大伽藍を備えた南九州屈指の大寺であり、最盛期には 1500人の僧侶がいたという。


明治の廃仏毀釈により薩摩国大隅国など旧薩摩藩領内にある寺はほとんどが破壊されたが、福昌寺は島津氏の菩提寺ということで特別に残っていた。


しかし、島津忠義の妻・暐姫 ( 島津斉彬の長女 ) が 1869年に亡くなり葬儀を神式で行うことになった際に福昌寺も破壊されることが決定した ( 72世時 )。


この時に歴代藩主が奉納した寺宝の多くが破壊されたり行方不明となったりしたままで、鹿児島県が文化財過疎県である一因になっている。


廃寺後
現在は歴代島津氏当主の墓地群のみが残っている。


跡地には鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校 ( 現在の鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校 ) が建てられた。


また、廃仏毀釈の収束後、有志が同地に福昌寺を再建しようとしたが許可されず、1898年、現在の薩摩川内市に後裔寺院にあたる「福昌寺」が建立された。


キリスト教と福昌寺
フランシスコ・ザビエルは鹿児島滞在中、島津貴久によってこの福昌寺を宿所としていた。


この時に当時の福昌寺住持であった 15世忍室とはかなり親しくしており、ザビエルは書簡で忍室のことを激賞している。


また 1870年の浦上四番崩れの際には浦上 ( 現・長崎市 ) のキリシタン収容所がこの福昌寺の跡地に建てられていた。


ちなみに他地域に送られたキリシタンの扱いはひどい物だったが、ここの待遇はかなり良かったらしく、後に西南戦争に連座して処刑された大山綱良の葬式をしたのはこの浦上のキリシタンであった。


所在地
現在の地番
鹿児島県鹿児島市池之上町48


交通アクセス
・JR九州鹿児島本線鹿児島駅から車で 5分


参考文献
・結城了悟『鹿児島のキリシタン』春苑堂書店、改訂版1975年
・ルイス・フロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史(6)‐ザビエル来日と初期の布教活動‐大友宗麟篇.1』中央公論社、のち中公文庫、2000年 ISBN 4122035856


関連項目
・妙円寺 ( 日置市 )
・鶴嶺神社
・鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校


外部リンク
・福昌寺跡 - 鹿児島市
(wikiより)


 左側の建物は、龍谷中学校・高等学校なのですが ( かなり大きい建物です )、この建物は " 福昌寺の敷地内 " に建っています。


 入り口は、3ヶ所有ります それぞれ入り直さないと " コンプリート " は無理です。


 此方の入り口は、地図左下部分のブロックになります。


また " 歴代住職の墓 " 、" キリシタン墓 " に行くには、画像左に行き右側の山を登ります。