酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

また前記事については、「リンク」より『 酔いどれJohnny『意外と身近にある歴史散歩』 』を御覧下さいませ。

7059 奈良原助八殉死之地(鹿児島市池之上町20) 

奈良原助八は、山城国・賀茂の出身で、16歳の時、第 11代当主・島津忠昌に仕えました。


忠昌は、文明 6 ( 1474 ) 年、わずか 12歳で、父・立久の跡を継ぎましたが、彼の治世は打ち続く戦乱のために困難を極めていました。


永正 3 ( 1506 ) 年、大隈の肝付氏が反乱を起こしたため、忠昌は永正 5 ( 1508 ) 年 2月 15日に失意のうちに清水城内で自刃して果てました。


当時 25歳であった奈良原助八は 2月 20日福昌寺門外の楠樹の下で親族や友人に遺書をしたためた後、忠昌に殉死しています。


法号は関月道三居士です。


助八の死は、島津家における初めての殉死といわれ、その場所に六地蔵塔が建てられ供養されました。


正面の石柱は塔の一部であると思われます。


なお、幕末、生麦事件にかかわった、奈良原喜佐衛門は助八の子孫にあたります。
( 案内板より)