酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

また前記事については、「リンク」より『 酔いどれJohnny『意外と身近にある歴史散歩』 』を御覧下さいませ。

7310 重巡最上戦没者慰霊碑(呉市上長迫町・旧海軍墓地)

これからは、呉の記事になります


この旧海軍墓地公園には、約 80基ぐらいの石碑が立っていてお墓も数基ありました


道が入り組んでいるため ( 自分自身が美味く出来なかったのですが ) コンプリート出来ませんでした


とりあえず撮影出来たものだけでも公開させて頂きますので、宜しく御願い致します。





最上 (重巡洋艦)
最上(もがみ)は[3]、日本海軍の軍艦[4][5]。 最上型重巡洋艦の1番艦である[6]。


概要
軍艦(ぐんかん)最上(もがみ)は、最上型重巡洋艦(最上型一等巡洋艦)の1番艦[6]。 呉海軍工廠にて[3]、1931年(昭和6年)10月から1935年(昭和10年)7月にかけて建造された[4]。 艦名は、山形県を流れる最上川に由来する[7][8]。 『最上』の名を持つ艦としては二隻目[9]。 初代最上は通報艦であった[8]。


当初、最上型は主砲として60口径15.5cm3連装砲塔を五基搭載し、軽巡洋艦(二等巡洋艦)として扱われる[4][1]。その後、太平洋戦争前の改装時に50口径20.3cm連装砲塔五基に置換して一等巡洋艦(重巡洋艦)となる[10]。ただし、書類上は二等巡洋艦のままだった[6]。


太平洋戦争開戦時、最上型重巡4隻(熊野[11]、鈴谷[12]、三隈[13]、最上)の第七戦隊(司令官栗田健男少将)に所属し、南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将(馬來部隊指揮官)の指揮下で南方作戦(マレー作戦、蘭印作戦)に参加[5]。 1942年(昭和17年)3月1日のバタビヤ沖海戦や、4月のベンガル湾機動作戦で活躍した[13][14]。


1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー作戦では、6月5日夜に僚艦三隈と衝突[13]、艦首を損傷[5]。第8駆逐隊(朝潮、荒潮)に護衛されて退避中の6月7日、米軍機動部隊艦載機の空襲で、さらに大破した(三隈も沈没、朝潮と荒潮も損傷)[5][15]。 最上は佐世保海軍工廠で修理をおこなうが、この時に後部主砲二基を撤去して飛行甲板を設置、航空巡洋艦に改装された[5]。 1943年(昭和18年)7月より戦線に復帰[5]。11月上旬、ニューブリテン島のラバウルで空襲を受けて損傷、内地に帰投した(ラバウル空襲)[5]。


1944年(昭和19年)6月中旬以降のあ号作戦では[5]、第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)、戦艦長門、第27駆逐隊(時雨、五月雨)等と共に小沢機動部隊 乙部隊に所属[16]、マリアナ沖海戦に臨んだ。


同年10月下旬の捷号作戦では、西村祥治中将指揮下の第一遊撃部隊第三部隊(通称西村艦隊)に所属[5]。戦艦2隻(山城、扶桑)等と共にレイテ湾へ進撃中の10月25日未明、スリガオ海峡での夜戦で大破(レイテ沖海戦、スリガオ海峡夜戦)[5]。さらに重巡那智(第五艦隊司令長官志摩清英中将)と衝突する[17]。最上は離脱中に空襲を受け大破、駆逐艦曙(第7駆逐隊)により雷撃処分された[5]。


詳しい事は、「最上 (重巡洋艦)wikipedia」をご覧ください。 

(wikiより)