酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


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7270 十六代・島津長丸墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)

島津 長丸(しまづ ながまる、明治4年9月18日(1871年10月31日)- 昭和2年(1927年)2月1日[1][2])は、明治から大正にかけての華族(男爵)。


島津氏一門・宮之城家16代当主。島津久治の長男。貴族院議員を務めた。


生涯
明治4年(1871年)、宮之城家第15代当主島津久治(島津図書)の長男として誕生。生後間もない明治5年(1872年)1月に父を失う。


明治29年(1896年)鹿児島市平ノ馬場町に私立鶴嶺女学校を創立した。明治30年(1897年)10月に男爵を授けられた[1]。


武徳会鹿児島支部副長、鹿児島電気軌道監査役、都市計画鹿児島地方委員会委員などを歴任。また、貴族院男爵議員を1901年9月から1904年7月まで務め、さらに1916年5月に再び選出され死去するまで在任した[3]。


栄典
・1903年(明治36年)12月11日 - 正五位[4]
・1910年(明治43年)12月27日 - 従四位[5]
・1919年(大正8年)1月10日 - 正四位[6]
・1924年(大正13年)5月31日 - 勲三等瑞宝章[7]


家族・親族
妻は、久治の弟島津珍彦の娘ハル(治子)で、島津久光・千百子を祖父母に持ついとこ婚。ハルは昭和に入って宮内省に出仕し、皇后宮女官長を務めた。


『平成新修旧華族家系大成』によれば1男5女。家督は長男の島津忠丸(ただまる)が継いだ。長女の廣子は三井高修(三井小石川家)に、二女の泰子は二条厚基公爵(二条基弘の子)にそれぞれ嫁している[1]。


脚注
1. a b c 『平成新修旧華族家系大成』上、p.747
2. 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』74頁は、没日を2月2日とする。
3. 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』74頁。
4. 『官報』第6135号「叙任及辞令」1903年12月12日。
5. 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
6. 『官報』第1930号「叙任及辞令」1919年1月11日。
7. 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。


参考文献
・『角川日本姓氏歴史人物大辞典 鹿児島県姓氏家系大辞典』(鹿児島県姓氏家系大辞典編纂委員会、角川書店、1994年)
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』霞会館、1996年
(wikiより)