酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


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何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


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7077 調所笑左衛門広郷墓(鹿児島県鹿児島市池之上町48・福昌寺)

調所 広郷 ( ずしょ ひろさと、安永 5年 2月 5日 ( 1776年 3月 24日 ) - 嘉永元年 12月 19日 ( 1849年 1月 13日 )) は、江戸時代後期の薩摩藩の家老。


諱ははじめ恒篤、後に広郷(廣郷)。通称は清八、友治、笑悦、笑左衛門。当時の呼称は調所笑左衛門が一般的。


生涯
城下士・川崎主右衛門基明 ( 兼高 ) の息子として生まれ、天明 8年 ( 1788年 ) に城下士・調所清悦の養子となる。茶道職として出仕し、寛政 10年 ( 1798年 ) に江戸へ出府し、隠居していた前藩主・島津重豪にその才能を見出されて登用される。ちなみに養父・清悦は同年 11月 27日に江戸で死去し[1]、この年に家督相続したものと思われる。


後に藩主・島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任し、小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務する。藩が琉球や清と行っていた密貿易にも携わる。天保 3年 ( 1832年 ) には家老格に、天保 9年 ( 1838年 ) には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。弘化 3年 7月 27日には志布志郷地頭となり、死ぬまで兼職する。


当時、薩摩藩の財政は 500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっており、これに対して広郷は行政改革、農政改革を始め、商人を脅迫して借金を無利子で 250年の分割払いにし、さらに琉球を通じて清と密貿易を行なった。一部商人資本に対しては交換条件として、この密貿易品を優先的に扱わせ、踏み倒すどころかむしろ利益を上げさせている。そして大島・徳之島などから取れる砂糖の専売制を行って大坂の砂糖問屋の関与の排除を行ったり、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、天保 11年 ( 1840年 ) には薩摩藩の金蔵に 250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。


やがて、斉興の後継を巡る島津斉彬と島津久光による争いがお家騒動 ( 後のお由羅騒動 ) に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。これは、聡明だがかつての重豪に似た蘭癖の斉彬が藩主になることで再び財政が悪化するのを懸念してのことであると言われている。


斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易 ( 藩直轄地の坊津や琉球などを拠点としたご禁制品の中継貿易 ) に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。


嘉永元年 ( 1848年 )、調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問される。同年 12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年 73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺とも言われる。


死後、広郷の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。葬所は養父清悦と同じ江戸芝の泉谷山大円寺。法号は全機院殿敷績顕功大居士。現在の墓所は鹿児島市内の福昌寺跡。


評価
明治維新の実現は薩摩藩の軍事力に負うところが大である。薩摩藩が維新の時に他藩と異なり、新型の蒸気船や鉄砲を大量に保有し、羽振りが良かったのは、1世代前に 500万両に及ぶ借金を「踏み倒し」、薩摩藩の財政を再建した広郷のお蔭と言える。


当時の薩摩藩の 500万両という借金は、年間利息だけで年 80万両を超えていた。これは薩摩藩の年収 ( 12万から 14万両 ) を超えており、返済不可能、つまり破産状態に陥っていた。「無利子 250年払い ( つまり 2085年までに及ぶ分割払い )」が踏み倒すも同然の処置であるのは事実であるが、そのような「債務整理」を行うのはやむを得ない処置である。実際には廃藩置県後に明治政府によって債務の無効が宣言される明治 5年 ( 1872年 ) までの 35年間は律儀に返済されており、密貿易品を扱わせ利益を上げさせるといった代替措置も行っていた。また、広郷のお陰で薩摩藩の財政改革や殖産や農業改革、及び高島流砲術採用など軍制改革にも成功しており、財政の面を中心に見ると薩摩藩の救世主であることは間違いない。


借金踏み倒しの面ばかりが強調されているが、広郷の真価はその後の薩摩藩の経済の建て直しにある。膨大な借金を作るような体制を作り変え、甲突川五石橋建設など長期的にプラスと判断したものには積極的に財政支出を行うことにより、最終的には 50万両にも及ぶ蓄えを生み出している。しかし、これはあくまでも幕府等を意識した表向きの公表数字であり、実際には少なく見積っても 200万両はあった ( この 200万両という数字は 2013年、鹿児島県歴史資料センター黎明館30周年記念企画特別展「島津重豪 薩摩を変えた博物大名」図録による。また原口虎雄は「幕末の薩摩」、論文等で天保の改革時の利益を黒糖のみで230万両超としている )。


一方、砂糖の専売では奄美群島の百姓から砂糖を安く買い上げた上に税を厳しく取り立てており、借金の返済でも証文を燃やしたり、商人を脅したりして途方もない分割払いを成立させたため、同時期に長州藩で財政改革を行なった村田清風と較べて ( 長州のほうが桁は一つ少ないものの )、財政を再建させた一方で多くの領民を苦しめた極悪人という低い評価がある。ただし、苗代川地区 ( 現在の日置市東市来町美山 ) では例外で、調所が同地の薩摩焼の増産と朝鮮人陶工の生活改善に尽くしたことから、同地域では調所の死後もその恩義を感じて調所の招魂墓が建てられて、密かに祀られ続けていたという ( この墓も現存している )。


広郷はまた、斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。その後、斉彬派の西郷隆盛や大久保利通が明治維新の立て役者となったため、調所家は徹底的な迫害を受け、一家は離散する。斉彬排斥の首謀者は斉興とその側室のお由羅の方だったが、この 2人は斉彬の死後に事実上の藩主となった久光の両親であり、弾劾出来なかったので、調所家への風当たりが一層強くなったものと考えられる。広郷の財政改革が後の斉彬や西郷らの幕末における行動の基礎を作り出し、現在の日本の近代化が実現されたと評価されるようになったのは、戦後のことである[2]。


名君とされる斉彬であるが、斉彬時代になってからの方が、領民に対する税率は上げられている。結局は船や大砲などを自前で作るよりは、斉興・広郷路線で海外から購入したほうが安くついたのである。ただし、そうした斉彬の開明的な姿勢が、日本の近代化に貢献した事実は評価されるべきであろう。


現在、鹿児島県鹿児島市の天保山公園には広郷の銅像がある。また鹿児島市平之町平田公園北側の旧邸宅跡地に、広郷の旧邸址を示す石碑がある。


家系
調所家は本姓藤原氏を称する。初代・藤原調所 ( ちょうそ ) 恒親 ( つねちか ) が藤原北家出身のためである。恒親は神職として京から大隅国へ赴任し、調所職 ( ちょうそしき ) という徴税職も兼ねた。以後、調所を姓とした。調所恒林は、近衞前久より同族のよしみとして「廣」の一字を拝領、廣榮と改め、以後調所家の通字となる (「旧記雜録家分け調所氏」参照 )。


広郷の相続したのは調所大炊左衛門の養子、調所内記の次男である調所善右衛門を家祖とする調所家で、万治2年の石高は 10石であったことが、『万治鹿府高帳』より知ることができる。


広郷の三男・調所広丈 ( 読みをちょうしょに改称 ) は、札幌農学校初代校長・札幌県令・高知県知事・鳥取県知事・貴族院議員などを歴任し、男爵に叙されて華族となっている。


子孫に刀剣刀装研究家の調所一郎がいる[3]。


関連史跡
「鹿児島市史三」の『鹿児島市の金石文』によると、鹿児島市吉野町磯の菅原神社に天保5年8月25日に島津久風や市田美作、諏訪治部、猪飼央とともに奉献した献灯があるという。


関連書籍
研究書
・『調所広郷』芳即正著 吉川弘文館 ISBN 4642050817
・『幕末の薩摩 悲劇の改革者、調所笑左衛門』原口虎雄著 中公新書 ISBN 412100101X


小説
・『調所笑左衛門 薩摩藩経済官僚』佐藤雅美著 講談社文庫 後に学陽書房 ISBN 4313751467(学陽書房)
・『薩摩燃ゆ』安部龍太郎著 小学館文庫 ISBN 9784094082098
・『目鑑橋』森光宏 著 東京図書出版会 ISBN 4434042068
・『斉彬に消された男 調所笑左衛門広郷』台明寺岩人 著 南方新社 ISBN 4861240964
・『奸臣と人のいう』滝口康彦著(「薩摩軍法」収録) 講談社文庫 ISBN 4061317350
・『薩摩兄弟飛脚』滝口康彦著(「権謀の裏」収録) 新人物往来社 後に新潮文庫


演じた俳優
・中村伸郎(『風の隼人』:1979年・NHK)
・高品格(『翔ぶが如く』:1990年・NHK大河ドラマ)
・平幹二朗(『篤姫』:2008年・NHK大河ドラマ)
・団時朗(『浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜』:2009年・NHK)
・竜雷太(『西郷どん』:2018年・NHK大河ドラマ)


補注
1. 「鹿児島県史料集 薩陽過去帳」参照。養父の法号は良泰院禅応喚宗居士。
2. ちなみに一時期、調所家は墓所を鹿児島から東京に移していたが、これは直木三十五の『南国太平記』がベストセラーになった昭和6年(1931年)以後のことである。
3. “3月例会が開催される”. 鹿児島青年会議所. (2010年3月23日) 2014年8月30日閲覧。


関連項目
・調所一郎
(wikiより)


 調所笑左衛門広郷