酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


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7245 寺坂吉右衛門墓(鹿児島県出水市美原町・吉国墓地)

伝・寺坂吉右衛門墓


元禄 15年 ( 1702 ) 赤穂浪士討ち入りの 47士の 47番目の浪士 寺坂吉右衛門は、唯一足軽であった。


討入り決行後に謎の失踪をした吉右衛門は、享保 2年 ( 1717 ) の頃、出水にあらわれ、何故か本名を名乗らず山右衛門といって、吉田忠左衛門子飼 ( こがい ) の足軽として教えられた文武の道を、平松近辺の若者に教えていた。


彼の失踪の謎を知る者は、盟主・大石内蔵助と主人・吉田と本人であったが、真相を話すことなく、享保 11年この地で寂しく没した。


墓碑は彼の門弟等によって建立されたといわれる。
(案内板より)


寺坂 信行(てらさか のぶゆき、寛文5年(1665年) - 延享4年10月6日(1747年11月8日))は、江戸時代前期の人物。赤穂浪士四十七士の一人。


通称は吉右衛門(きちえもん)。のち麻布山内家の家臣。


生涯
寛文5年(1665年)、赤穂藩浅野家家臣で船方役人・寺坂吉左衛門の子として赤穂若狭野に生まれた。母は川端与右衛門女。


寛文12年(1672年)、8歳の時に吉田兼亮の家で奉公のうえ世話になるようになった。元禄4年(1691年)、兼亮が加東郡郡代となった際に赤穂藩の足軽(浅野長矩直臣)とされた。赤穂藩内では兼亮の組下で3両2分2人扶持を支給された。またこの年に浅野家小役人下村長次郎の娘と結婚している。また、元禄7年(1694年)には吉田兼亮の娘が伊藤治興(姫路藩士)に嫁ぎ、翌年には2人は長男伊藤治行を儲けたが、この介抱を寺坂夫婦が任されている。


元禄14年3月14日(1701年4月21日)、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んで切腹し、赤穂藩は改易となったが、この際に寺坂は兼亮とともに加東郡におり、ともに赤穂城へ駆け付けた。赤穂城明け渡しを前に家老・大石良雄が同志と血判の義盟を交わしたが、この義盟に足軽の身分の寺坂は加わっていない。その後、上司の吉田兼亮が播州三木(現:兵庫県三木市)へ退くとこれに従う。寺坂は同志に加えて貰えるよう強く願い、大石良雄は最初は寺坂の身分を考えて躊躇したが、その熱意にほだされて義盟に加えた。寺坂は吉田兼亮に付き従い、足軽の身分ながら同志との会合にも出席している。


元禄15年12月14日(1703年1月30日)の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属していた。しかし、討ち入り後に赤穂浪士一行が泉岳寺へ引き上げたときには寺坂の姿はなかった。討ち入り直前に逃亡したという説、討ち入り後に大石良雄から密命を受けて一行から離れたという説、足軽の身分の者が討ち入りに加わっていることを大石が公儀に憚りがあるとして逃したという説があるが、真相は不明である。『忠臣蔵』の物語では討ち入りの様子について、浅野家のゆかりの者へ伝えるよう大石から命を受けて瑤泉院や広島に蟄居していた浅野長広の元へ行ったように描かれ、吉田兼亮が寺坂を「不届き者」呼ばわりしたのは、公儀に追手を出されない為の配慮であったなどという描写も見られる。


討ち入り後の寺坂には、大目付仙石久尚の決定により一切の追手はかからなかった。そのまま吉田兼亮の娘婿の伊藤治興に奉公している。伊豆大島に遠島に処された兼亮の遺児吉田兼直にも忠義を尽くしている。遠島の際の見送り、赦免後の出迎え、伊藤家までの護送、すべて寺坂が行っている。その後、仙石久尚の元に出頭したと言われるが、久尚は一切罪を問わず、逆に金子を与えて送り出した。


しかしその後伊藤家を離れたようで享保8年(1723年)3月頃には江戸麻布の曹渓寺で寺男をつとめている。さらに同年6月頃には曹渓寺の口利きで、土佐藩主山内家の分家麻布山内家の第3代山内豊清(主膳)に仕えて士籍を得た[1]。このときに今日にまで残る寺坂の「親類書」が提出されたという。


延享4年(1747年)に病死。曹渓寺に葬られる。戒名は節岩了貞信士。享年83。後年、慶応年間に入ってから泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられており、ここでの戒名は、遂道退身信士となっている。


映画・ドラマなどフィクションでは大石良雄の従者として描かれる事が多い。また、柴田錬三郎の小説『裏返し忠臣蔵』などでは寺坂を忍びの者として描かれており、必殺仕事人のスペシャル版である『必殺忠臣蔵』では寺坂は仕事人であったとしている。


四十七士か四十六士か
寺坂信行は士分ではなく足軽身分である。また寺坂は討ち入り後、泉岳寺に行くまでに姿を消している。そのため、彼を赤穂浪士の一人として加えるべきかどうかが、事件当時から論争の火種になってきた。


後に上司の吉田兼亮も「吉右衛門は不届き者である。二度とその名を聞きたくない」と語り、大石良雄は「軽輩者であり、構う必要はない」と書き残している。一方、伊藤家の資料から四十六士が四家にお預かりになった後、寺坂が浅野長広がいる広島へ行っていることが確認できる。堀部言真の書簡からも討ち入り後、寺坂が寺井玄渓(赤穂藩医)のもとへ行っていることが確認されている。


なお、寺坂が討ち入りに加わりながら幕府の追手に掛らなかったのはすべて仙石久尚の意向による。浅野長矩の親戚である仙石は、大石が出頭した大目付であり、評定所では浅野びいきの判決を出した人物である。


寺坂吉右衛門の墓
・東京都港区 曹渓寺
・東京都港区 泉岳寺
・宮城県仙台市泉区 実相寺
・静岡県加茂郡西伊豆町 慈眼寺
・大阪市住吉区 一運寺 (元は天野屋利兵衛の菩提寺であった「龍海寺」にあったものを明治期に移設したとの記録が寺に残されている。)
・福岡県八女市 一念寺
・長崎県五島市 恵剣寺
・島根県益田市
・鹿児島県出水市美原町


子孫
・寺坂静子(前田静子)


補注
1. 『土佐史壇』青木義正著、第2号(大正7年)による。


関連項目
・大石神社
・最後の忠臣蔵 - 池宮彰一郎が著した寺坂を主人公とする歴史小説。2004年にNHKで連続ドラマ化、2010年に映画版も公開された。
・山内豊清 - 晩年、寺坂が仕えた主君。
・日本最後の一覧
(wikiより)


関連情報
https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/47.html
44 吉田忠左衛門兼亮墓


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/78.html
75 寺坂吉右衛門信行墓


( かなりの土砂降り状態なので、若干画質が悪いです )