酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


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7324 駆逐艦初風慰霊碑(呉市上長迫町・旧海軍墓地)

初風は陽炎型の7番艦である。 1921年(大正10年)のワシントン条約により、主力艦の対米英比率を6割とされた日本海軍は、条約の制限を受けない巡洋艦以下の補助艦艇を強化し、これにより敵主力艦隊に先制攻撃をかれて漸減させる作戦を打ち出した。 日本海軍は艦隊型大型駆逐艦として吹雪型(特型)駆逐艦を1928年(昭和3年)~1933年(昭和8年)に24隻竣工させた。 しかしながら、1930年(昭和5年)のロンドン条約により、駆逐艦の保有量を対米英比率7割とされ、個艦排水量などにも制限がかけられた。 このため日本海軍は、次の初春型では基準排水量1,400トンとし、兵装は吹雪型とほぼ同等という設計とした。 初春型は友鶴事件の発生により復原力の根本的改正を余儀なくされ、この結果、兵装は削減(魚雷発射管3連装3基→2基)され、速力も大幅に低下(約3ノット)した。 つづく白露型では、基準排水量1,685トンとし、主砲は性能改善後の初春型と同等としたが、魚雷発射管は4連装2基8射線とした。 航続力は18ノットで4,000浬と前級の14ノット時の値を維持したが、速力(34ノット)とともに、用兵側の満足は得られなかった。


白露型の兵装、速力、航続力では不十分であると判断され、次の朝潮型では1937年(昭和12年)以降の条約破棄を前提に、基準排水量を1,961トンにまで増大し、速力35ノット、航続力18ノットで4,000浬、12.7cm連装砲3基、魚雷発射管は4連装2基の計画とした。 計画中の1935年(昭和10年)に発生した第四艦隊事件による船体強度の見直し等により、基準排水量は2,000トンとなった。 朝潮型は兵装面では吹雪型(特型)に匹敵し、復原性能と船体強度に関しても十分なものであったが、速力と航続力において性能不足が指摘されていた。


朝潮型の次に計画された陽炎型は、速力と航続力の増大を望まれたが、艦型が過大とならないよう、速力を35ノットに抑え、航続力を18ノットで5,000浬とした。 しかしながら、天津風のみは機関の蒸気条件を400℃、3.9MPa(40kg/cm2)という高温高圧とし、18ノットで約6,300浬の航続力を得た。 本型の艦型は、朝潮型とほぼ同等であるが、友鶴事件および第四艦隊事件の教訓を始めから織り込んだ新設計であった。 兵装は朝潮型と同等としたが、魚雷に関しては新造時より九三式魚雷(酸素魚雷)を搭載した。 本型の完成により、艦隊型大型駆逐艦の航続力に対する要求は達成され、次級の夕雲型とともに開戦時から中盤までの主力駆逐艦として活躍した。


開戦時には、第二水雷戦隊第十六駆逐隊に所属し、レガスビー攻略作戦を支援、引き続いてダバオ攻略作戦に参加した。 翌1942年(昭和17年)初頭からメナド、ケンダリー、アンボン、クーパンの各攻略作戦に従事、2月25日にはスラバヤ沖海戦に参加した。 6月のミッドウェー作戦には攻略部隊の護衛部隊として参加した。 8月にガダルカナル戦が始まると天津風はソロモン方面へ進出、第二次ソロモン海戦、10月の南太平洋海戦に参加した。 1943年(昭和18年)1月ガダルカナル島輸送作戦に従事していたが、10日にガダルカナル島沖で被雷大破しトラックで応急修理を施された。 その後、4月に呉に帰投し、7月12日まで修理に当たった。 8月には再びトラックへ進出、以降はトラックを中心に船団護衛に従事した。 11月2日、ブーケンビル沖海戦でアメリカ水上部隊と交戦中に妙高と衝突、敵艦の集中砲火をうけ、南緯6度20分、東経155度35分の地点で沈没した。