酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

また前記事については、「リンク」より『 酔いどれJohnny『意外と身近にある歴史散歩』 』を御覧下さいませ。

7318 駆逐艦陽炎之碑(呉市上長迫町・旧海軍墓地)

陽炎 (陽炎型駆逐艦)
陽炎(かげろう/かげろふ)は、日本海軍の駆逐艦[1]。陽炎型駆逐艦(一等駆逐艦陽炎型)の1番艦(ネームシップ)である[2]。 この名を持つ日本海軍の艦船としては東雲型駆逐艦「陽炎」[3]に続いて2隻目となる。 本艦の沈没後、陽炎型駆逐艦は不知火型駆逐艦と改名された[4]。


艦歴
太平洋戦争まで
舞鶴海軍工廠で1937年(昭和12年)9月3日に起工[5]。1938年(昭和13年)4月15日、舞鶴工廠で建造中の駆逐艦に『陽炎』、浦賀船渠の駆逐艦に『不知火』、藤永田造船所の駆逐艦に『黒潮』、東京石川島造船所の測天型敷設艇2番艇に「白神」等の艦名が正式に与えられた[6][1]。同日附で艦艇類別等級表に『陽炎型駆逐艦』が新設され、3隻(陽炎、不知火、黒潮)は同型に類別された[7]。 「陽炎」は同年9月27日に進水した[5][8]。


1939年(昭和14年)2月2日、吹雪型駆逐艦敷波駆逐艦長山本岩多中佐は陽炎の艤装員長に任命された[9]。2月6日、舞鶴海軍工廠に陽炎艤装員事務所を設置[10]。 8月10日附で山本艤装員長は陽炎駆逐艦長(初代)となる[11]。「陽炎」は11月6日に竣工した[5]。起工・進水とも2番艦「不知火」の方が1番艦「陽炎」より早かったが(不知火起工1937年8月30日、進水1938年6月28日)、竣工は「陽炎」の方が先である[12]。舞鶴工廠で建造された陽炎型は、1番艦「陽炎」の他に4番艦「親潮」、9番艦「天津風」、15番艦「野分」、16番艦「嵐」が存在する[13]。


竣工後の「陽炎」は、ただちに第18駆逐隊(霞、霰)に編入された[14]。当時の第18駆逐隊司令は久宗米次郎大佐[15]。 11月1日、山本(陽炎駆逐艦長)は軽巡洋艦鬼怒副長へ転出[16]。駆逐艦複数隻(蓬、疾風、有明、綾波)の艦長を歴任した天野重隆中佐が、陽炎駆逐艦長(2代目)に任命された[16]。 11月15日、第18駆逐隊は第二艦隊・第二水雷戦隊に編入[14]。同時に第二水雷戦隊司令官も後藤英次少将から五藤存知少将に交代した[17]。また久宗大佐(18駆司令)も川内型軽巡1番艦川内艦長へ転任[18]。新たな18駆司令として佐藤寅治郎大佐が着任した[19]。 12月20日、陽炎型2番艦「不知火」が竣工して第18駆逐隊に編入、同隊は定数4隻(霞、霰、陽炎、不知火)を揃えた[14]。


1940年(昭和15年)10月15日附で天野(陽炎駆逐艦長)は第13駆逐隊司令へ転出(第61駆逐隊司令として、レイテ沖海戦で初月沈没時に戦死)[20]、朝潮型駆逐艦朝潮駆逐艦長横井稔中佐が陽炎駆逐艦長(3代目)に就任した[21]。 12月6日、第18駆逐隊司令は佐藤大佐から荒木傳大佐[22]に交代した(佐藤大佐は翌年3月31日、第4駆逐隊《嵐、萩風》司令)[23]。


1941年(昭和16年)9月1日、荒木大佐(18駆司令)は軽巡洋艦北上艦長へ転任[24]。新司令として宮坂義登大佐(前職第30駆逐隊司令)が着任する[25]。9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将も第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)司令官へ転出、後任の二水戦司令官は田中頼三少将となった[26]。


太平洋戦争緒戦
太平洋戦争開戦時には、同型2番艦「不知火」、朝潮型2隻(霞、霰)と共に引続き第18駆逐隊を編制し、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)に所属していた。当時の第二水雷戦隊は川内型軽巡洋艦2番艦「神通」を旗艦とし、第8駆逐隊(朝潮、大潮、満潮、荒潮)、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮、夏潮)、第16駆逐隊(雪風、時津風、初風、天津風)、第18駆逐隊で編制されていた。 しかし、第18駆逐隊は南雲機動部隊(司令長官南雲忠一中将)の警戒隊に編入され、第二水雷戦隊本隊とは別行動だった[27]。機動部隊警戒隊指揮官(旗艦)は第一水雷戦隊司令官大森仙太郎少将(長良型軽巡洋艦阿武隈)。この警戒隊には、陽炎型姉妹艦4隻で構成された第一水雷戦隊・第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)と陽炎型19番艦「秋雲」が加わっていた。


1941年(昭和16年)11月26日、ハワイ攻撃機動部隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)の護衛として単冠湾を出港、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加した[14]。帰投後、横井駆逐艦長が脳溢血で倒れる[28]。12月22日附で横井艦長は職務を解かれ、陽炎型姉妹艦「秋雲」駆逐艦長有本輝美智中佐が陽炎駆逐艦(4代目)に任命された[29]。


1942年(昭和17年)1月5日、呉を出港し機動部隊とラバウル攻撃に従事。1月29日、2隻(浜風、陽炎)は空母「翔鶴」を護衛して横須賀に向かった[30]。2月3日、横須賀着[31]。その後も南雲機動部隊の空母と行動を共にする。2月には第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)のポートダウィン攻撃を護衛、さらにジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦に参加。4月23日、呉に入港し入渠整備を行った[32]。同時期、空母機動部隊護衛隊(第十戦隊)の新設にともない、陽炎以下第18駆逐隊は第一水雷戦隊の指揮下を離れ、第二水雷戦隊に復帰した[33]。第18駆逐隊は第1小隊(不知火、霞)、第2小隊(陽炎、霰)という編制である[34]。また二水戦からは第8駆逐隊が除かれた[35]。


5月下旬、陽炎以下第二水雷戦隊(神通、第15駆逐隊、第16駆逐隊、第18駆逐隊)はサイパンに進出、6月上旬のミッドウェー海戦に攻略隊の護衛として参加した[36][37][38]。主力空母4隻炎上後、第二水雷戦隊はミッドウェー島に急行して炎上する空母「赤城」を見たという陽炎軍医長の回想があるが[39]、実際は不明である[40][41]。 6月8日、18駆は第七戦隊(司令官栗田健男少将)の指揮下に入る[42]。この後、第18駆逐隊は大破した最上型1番艦「最上」をトラック泊地まで送り届けた[39]。 6月23日、第18駆逐隊は第七戦隊の重巡2隻(熊野、鈴谷)を護衛して呉に帰投する[43]。この後、第18駆逐隊は第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将:旗艦「那智」)の指揮下に入った[44]。 6月23日、大本営はアッツ島(熱田島)およびキスカ島(鳴神島)の長期確保を指示し、連合艦隊および北方部隊は兵力増強のため輸送部隊(千代田、あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸、第18駆逐隊)を編制した[45]。6月28日、第18駆逐隊(不知火、霞、霰)は水上機母艦「千代田」、輸送船「あるぜんちな丸」と共に横須賀を出撃、本艦は日本近海の対潜掃蕩作戦に従事した[43]。しかし6月23日には東京湾沖合で白露型駆逐艦8番艦「山風」(第24駆逐隊)が米潜水艦ノーチラス (USS Nautilus, SF-9/SS-168) の雷撃で撃沈され[46]、28日には「千代田」(当時霞護衛中)も襲撃されている[47]。「陽炎」は出動した部隊と協同でノーチラスに損傷を与え、ノーチラスを追い払った。


7月5日、アリューシャン方面作戦に従事して千代田・あるぜんちな丸と共にキスカ島に停泊していた第18駆逐隊3隻(不知火、霞、霰)は、米潜水艦グロウラー(USS Growler, SS-215)に襲撃された[46][48]。同艦の攻撃により「霰」が沈没、「不知火」・「霞」が大破航行不能という大損害を受けた[49][50][51]。 7月9日、「陽炎」は輸送船「菊川丸」の護衛として横須賀を出発した[52]。19日にキスカ島へ到着し[53]、大破した僚艦2隻(不知火、霞)を目撃した[39]。 7月14日、第16駆逐隊(雪風、時津風、天津風、初風)は第二水雷戦隊から除かれ、第十戦隊に編入された[54]。 それと共に第24駆逐隊(海風、江風、涼風)が第二水雷戦隊に編入された[55]。


7月14日附で宮坂大佐は第18駆逐隊司令職を解かれた[56]。 7月20日、無傷で残存していた「陽炎」は第二水雷戦隊所属の第15駆逐隊に編入される[57]。開戦時の第15駆逐隊(昭和16年6月18日より駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐)は[58]、陽炎型4隻(黒潮、親潮、早潮、夏潮)で編制されていたが、1942年(昭和17年)2月9日に米潜水艦「S-37」の雷撃で「夏潮」を喪失し[46]、3隻体制になっていたのである[59]。 7月27日、救難資材および修理要員を乗せた夕雲型駆逐艦4番艦「長波」がキスカに到着[60]、翌日、「陽炎」は「雷」(第6駆逐隊)に曳航される「霞」(18駆僚艦)を護衛してキスカを出発した[61][62]。8月3日、3隻(陽炎、雷、霞)は幌筵島片岡湾に到着、ここで霞曳航駆逐艦は「電」(第6駆逐隊)に交代した[60]。「陽炎」は横須賀に向かい、8月8日着[63]。同日附で第二水雷戦隊に復帰した[64]。8月9日、北海道石狩湾で霞曳航艦は「電」から「富士山丸」に交代[60]、8月13日に舞鶴へ到着した[60]。 8月15日、第18駆逐隊は解隊された[65]。


詳しい事は、「陽炎 (陽炎型駆逐艦)wikipedia」をご覧下さい。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E7%82%8E_(%E9%99%BD%E7%82%8E%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)