酔いどれJohnny.2nd 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。

とうとうセカンドステージに突入で御座います。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

また前記事については、「リンク」より『 酔いどれJohnny『意外と身近にある歴史散歩』 』を御覧下さいませ。

7306 菅野平十郎墓(鹿児島県宮之城町・宮之城島津家墓地)

この記事にて鹿児島シリーズは全て終了となります


長らくお付き合い頂き有難う御座いました。




菅野平十郎の由来


薩摩の養蚕は、加世田領主・島津忠良 ( 日新齋 ) の側室 ( 宮之城島津家初代・尚久の生母で桑御前と呼ばれた) が家中で奨励したことが始まりといわれ、宮之城島津家では十四代当主・島津久寶が、近江国 ( 滋賀県 ) から養蚕の教師を呼び、領内で奨励しています。


明治時代になり、蚕業発展に尽くした宮之城の平田孫一郎らは、同二十六年、優良な自家蚕種 ( さんしゅ ) ( 蚕の卵 ) の製造を目指して「厚生社」を設立。


鹿児島県庁で養蚕技術を指導していた福島県出身の菅野平十郎を迎え、蚕種製造に従事させました。


菅野は京塚原に桑園を造り、徹底した管理・指導により、蚕種はたちまち県下に普及していきました。


退職後は京塚原に居住していましたが、大正 7年 8月、78歳でこの世を去りました。


なお、遺錦 ( ニシキヲノコス ) の文字は、宮之城出身の政治家、大浦兼武が書いたものです。
(案内板より)